さけ、時々、めし

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大衆酒場のこれからとあこがれの焼酎ハイボール

昨今のネオ大衆酒場、インチキレトロモダン居酒屋の台頭で、割とどこでも厚切りハムカツにポテトサラダ、そして赤星ラガーやキンミヤホッピーをサーヴする店を見かけるようになった。店内には、芸鼓のお姉さんの背景に「キリンビイル」って印字されていたり石原裕次郎が写ったりしてるポスターが貼ってあるような内観の。たしかにサッポロラガーを置いている店、ってそれだけで個人的には嬉しいけど、なんかとりあえずそれだけあれば大衆酒場の最低必要条件満たしてるからいいんでしょ?って感じがしなくもなくて、うーん。

ホッピーも同様。確かに安く飲めていいんだけど。というかホッピーの置いてある店は往々にしてビールが高いことが多いから必然的にホッピーを選択するように誘導している店が多いイメージなんだけど、プリン体ゼロとか低糖質とかそういうオプションで煽って消費を煽るってものすごい違和感。健康第一なら赤ワインを量測ってグラスに一杯だけ飲んでろって思う。

「ホッピーは金がなくてビールの飲めない肉体労働者のための飲み物だから昔浅草とか川の辺りの職人商人は絶対に飲まなかった。おばさんは飲んじゃ駄目だと言っていた。みんな飲むのは酎ハイや色つきのレモンハイ。今みたいに甘くないやつ。今のホッピー通りなんか観光客のための客寄せパンダでしかねえよ。」

50も半ばを過ぎた自分の親父は大学受験に滑ってプー時代、浅草で靴屋を営んでいる親戚のもとで店を手伝いながら何年かフーテン的に暮らしつつ近場で散々飲み潰れていたらしくて、酒や下町文化に興味を持つようになった自分がその時のことを質問するようになると、今の爆買い族で溢れて30年前と大きく変わった浅草をテレビ越しに見ながらシニカルに呟いた。恐らく、肉体労働者が多かっただろう港湾の江東区とか日雇い労働者で溢れた上野あたりの文化なんじゃないか、って。

親父の飲んでいただろう、かつての裏浅草千束あたりで飲めたような若干ダークでデカダンな酎ハイを飲んでみたいな、って思っていた自分は墨田区で暮らすようになって割とあっさりとその甘くない酎ハイを知る。というか、墨田区はまさにそれの聖地とでもいうべき場所で、酎ハイ街道なるものまであった。

東京下町のグルメ 墨田区の鐘ヶ淵、酎ハイ街道を行く「電車で東京下町散歩」 | 東武鉄道株式会社

他にも墨田区の中でも北の方、地味な工場地帯である八広、墨田、東向島といったようなところで出す店が多く、葛飾区やら墨田区やら、発祥の店となっているところはけっこうあるみたいで、発祥の一つとされる八広の三祐坂場の酎ハイはほのかに桃、杏仁系の香りがする柔らかいテイストだった。

基本的には天羽の梅というシロップが肝のようだ。天羽の梅は台東区の天羽飲料製造㈱が作っているコハク色をしたシロップで、「A」とか「うめ」とか若干種類がある。立石の超有名もつ焼き店の梅割りも「うめ」があれば似たような味が楽しめる。ただ、他にも似たようなシロップがあるようでお店によって味が若干違う部分は置いといて。

親父が飲んでたその甘くない色つき酎ハイとはたしてイコールであるかはわからないけど微かな甘みと酸味、ん?飲んだっけ?ってくらいの軽い口当たりは飲み潰れるにふさわしいドリンクだと思う。個人的に、「唐揚げにはウイスキーハイボール」ではなくて「焼酎ハイボール」だし、くたびれたカウンターでハムエッグとかぬか漬けを眺めながら飲むのも隣にホッピーのビンよりニホンシトロンとかそういう昭和感を放出しているタイプのビンを置ける焼酎ハイボールのほうがいとをかし、って思う。

 

話が戻るけどそういう城東地区では「建物ぼろいし耐震性とか危険なのと不便だし道狭いから開発しようぜ」、ってノリの工事にひっかかって昔の大衆酒場なり飲み屋が立ち退き閉店、とかになっている。曳舟の三祐坂場とか。立石は商店街ががんばってるらしいけど。

長年の店、雰囲気がなくなるのは確かにもったいないとは思うけど、でも立ち退き=閉店って少し短絡的じゃない?とも思う。城東区独特の焼酎ハイボール文化は戦後のドサクサを感じさせるようなチープでおもちゃっぽいような、ジャンクさを孕んだその味とやさぐれ続けている街の雰囲気にジャストフィットしていて唯一無二。なもので、そういう文化を感じさせて伝えてくれるような空間を提供できる場所はとても貴重だと思う。せっかくだから場所移ってでも続けてくれればあらまほしい。

冒頭に書いたようなエセ、意識高い系ネオ大衆酒場が今後のスタンダートになるか否かは今後のオリンピック含めた再開発の経済の波と店の踏ん張り、そして口コミサイトとか他人の情報に踊らされず自分の感覚で店を選ぶような客の品格なのかもね、って思う。